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■■□ 捌 書 日 誌 |
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高橋新太郎は膨大な書籍類を収集しました。そのごく一部は
「彷書月刊」に
「集書日誌」と
して本人が紹介しています。しかし大半の蔵書は未整理で、収集の目的も管理・分類もされ
ていません。また、本人死去の後、その収集された蔵書の目的や、目的に照らした整理・分
類は不可能な状態となっています。われわれ高橋新太郎文庫メンバーの日々の作業は、とに
かくその膨大な書籍を捌いてくことにあります。
高橋新太郎が「集書」したものを、捌きながら考えたこと……そんなところから、「捌書日
誌」を書き始めました。執筆は高橋新太郎の学習院高等科勤務時代の教え子・
松村良 を中心に、事務局・中川順一や高橋新太郎文庫に関わるメンバーが不定期に掲載していきま す。
(2005年2月14日、中川・記)
『杜と櫻並木の蔭で 〜学習院での歳月』 高橋 新太郎/永井 和子・園木 芳[編]
→本の紹介を読む 笠間書院/2004年7月30日発行 定価:本体2,100円(税込)
コラム 学習院の新太郎先生のこと |
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捌書日誌の原稿が止まっていたので、復活させるためにとりあえず軽いところから。
昭和43年(1968年)8月1日発行の「少年ジャンプ」創刊号。小学校3年生の夏休みに、栃木県佐野市の父の実家に泊まりに行ったときに、叔母さんに買ってもらった。当時、「新創刊雑誌だから買おう」などと思うはずもないのだが、そこに載っていた「父の魂」(貝塚ひろし)のマンガが妙に印象に残っていた。
印象と言っても「これ『巨人の星』の真似だ」というもので、「真似っコがいるぜ」と二学期になってから、クラスの巨人の星ファン仲間に見せた覚えがある。巨人の星ファンの小学生が「大袈裟なマンガだ」と思った不朽の名作。この初回「孤独な選手の巻」はなんと46ページ。目から滝の涙が随所に出てくる。
創刊号はしばらく部屋の本棚にあったのだが、いつのまにか処分していた。そして40年ちかく経って、高橋新太郎文庫で再会したのである。古書店で30,000円もするらしい創刊号の値段は90円。表紙には毎月2回、第2と第4の木曜日に発売されると書いてある。あの海賊キャプテンマークはこのときからあるが、後にこの本が集英社の諸君の毎月の給料を稼ぐことになるとは、知る由もなかったろう。まぁ、この頃の社員はとっくに定年しているだろうし、ジャンプの最盛期は80年代後半から90年代。1995年の3-4号は実に653万部の歴代最高部数を記録している。1冊200円だったから、1号で13億円ですぜ。
10万5000部刷られたという創刊号のその他の掲載は「熱血感動くじら大吾」(梅本さちお)、「妖怪時代・手」(梅津かずお)、「大あばれアパッチ君」(赤塚不二夫)、「異色戦記ドル野郎」(望月三起也)といったコメントしにくい作品群。で、ついに登場、永井豪「ハレンチ学園」! なぜかこの作品名は、表紙には掲載されていない。
マンガ界では大手出版社の有力マンガ雑誌が新人賞等を募集し、将来モノになりそうな若手を青田刈りして抱え込んでしまうこともある。この先駆けのひとつが「少年ジャンプ新人賞」。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」によれば「『専属契約制』はジャンプが一から育てた初の漫画家とも言える永井豪が『ハレンチ学園』の連載の傍ら他誌での連載を開始したことに危機感を覚えた当時の編集長の長野規が発案したものと言われている。ちなみに、同制度の適用第1号となったのは本宮ひろ志である。」とある。創刊号にはその長野編集長の「新人に期待する」のメッセージと新人賞の募集広告が出ている。入選1作10万円。当時90円の本がいまは税込240円だが、入賞賞金は100万円と10倍になり、昭和43年の、公務員の初任給は27,600円(東京都人事委員会)で、現在の大卒程度は約20万1,000円だから7.3倍。本は「安くなっている」。
表4(裏表紙)広告は、田宮模型。この頃まではまだ、マンガもプラモデルも、子供のためにあった。
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高橋文庫でデータ入力作業をやっているS君が、変な本があるというので、見せてもらった。真黒い表紙には何も書かれていない。中を見て思わず呆然。
あぁーあぁああ
ああああああああ「ああああああああ」ああ、ああ−ああああああああああああああああああああああああ。あああああああ、あああああああああ、あああああああああああああああああああああああ。
以下ずっと「あ」の文字が続く。一冊まるごと「あ」だけで構成された本だったのだ。頁数まで「あ」「ああ」「あああ」である。途中、7葉ほど写真が掲載されており、14頁ほど違うレイアウトの頁が続き、また最初の「あぁーあぁああ」に戻る。その繰り返しで、190頁ほど続くのだ。途中ゴシック体だったり、カッコで括ってあったり、ルビが振ってあったり(もちろん「あああ」に「ぁぁぁぁ」と)するが、とにかく「あ」しかない。
写真もヘンだ。ブロンドの女性や、眉のやたら太い男の顔や、軍隊の行進の前で下着姿で下半身を露出している女性や(これはコラージュっぽい)、馬だか何だかよくわからない男の顔や、何が何だかうまく説明できない写真や、とにかくキャプションも「ああああああーあ」だったり「ああああああ」だったりするから、さっぱりわからない。
一応著者名はちゃんと漢字で、松本百司という名前である。1966年6月30日発行で、定価440円。発行所は「あ出版社」。印刷は「極陽印刷」。「山田実様 一九六七・五・一 松本百司」という著者の直筆サインまで記されている。ますますわからない。
果たしてこれは、何かのサンプルなのか?一種の冗談なのか?それともシュールな芸術作品なのか?どなたかわかりませんか?
※資料画像準備中
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さて、昭和19年の暮れになると、「主婦之友」の内容はより過激になる。12月号の表紙には「滅敵生活」と書かれ、「―滅敵の航空機を造る―」と題して白鉢巻の少女が工具を握っている姿が描かれている。そして何より特徴的なのは、赤字で「アメリカ人をぶち殺せ!」と記されていること。これは表紙だけではない。ほとんどの奇数頁の上部に「アメリカ人をぶち殺せ!」「アメリカ人を生かしておくな!」と書かれているのだ。11月号には無かったことから、この号から始まったのだと思われる。
「これが敵だ!野獣民族アメリカ」という巻頭記事も、ひたすらアメリカ人の「極悪非道」ぶりを強調し、敵意をあおる内容である。例えばルーズベルト大統領の写真のキャプションは「こいつが戦争の張本人だ! あなたの父を、子を、兄弟を殺したのは誰だ! こいつだ! この悪魔だ! この悪魔奴を叩き殺せ!」である。
「ハナ子さん一家 打倒米鬼の巻」(杉浦幸雄)というマンガもすさまじい。ある冊子を読んだ登場人物たちが、次々と激怒していくのだが、その冊子には「敵は日本の女をみんなメカケにして、男は全部奴隷にする」と書いてあり、最後にそれを読んだ老婆が「年はとつても大和撫子、ウヌらのメカケなんかに死んでもならんぞッ」と叫んでほうきを振り回す。
「撃ちてし止まむ」「鬼畜米英」という言葉は知っていたが、実際にこのような雑誌を手に取ってみると、暗澹たる思いにとらわれる。果たしてこれらの記事を読んで戦意が高揚した人がどの位いたというのだろう。この戦争に負けたら何をされるかわからないという、不安と絶望だけが心に残ったのではないだろうか。敵意をあおるメディアによって、相手の姿がゆがんで見えるのは、現代においても同じである。私達が北朝鮮の人々を笑うならば、それは60年前の日本人を笑うことに等しい。
また、毎号「防空用品の工夫と作り方」や、「空襲下の食生活」における非常食の作り方ばかりでは、当時の女性たちの生活は満たされなかったに違いない。以前紹介した「ソレイユ」が、戦後まもなく刊行された理由は、これらの「主婦之友」と比べてみると実によくわかる。
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若桑みどり『戦争がつくる女性像』(ちくま学芸文庫)によれば、「主婦之友」は「もっぱら家庭婦人の日常に密着した実用記事によってその発行部数の多さを誇り、昭和一八年当時には、一六三万八八〇〇部を発行していた」という。昭和17年以降「頁数は顕著に減少」したものの、「廃刊、減部数に追い込まれることなく発行を継続」できたのは、どうも「その記事内容が時局に適応していたということ」らしい。
昭和19年5月号を例に挙げてみよう。「勝つための戦争生活」と書かれた表紙には、「銀翼に日の丸を描く―女子挺身隊」と題された若い女性の働く姿が描かれている。『戦争がつくる女性像』によれば、「戦時の女性役割が女性に対して本来の女性性に矛盾する要素を要求するときには、理想とされる女性像は変貌し、「銃後の強い司令官」としての「雄々しさ」が現れる」のだという。
さらに表紙には赤字で「必ず回読してください」「前線の兵隊さんは一本の煙草も分けてのみます。私達も一冊の主婦之友を十人二十人で読み合ひませう」と書かれてあり、裏表紙には回覧順や日数を記入するためのマスが印刷されている(目次の下の「回覧欄の使ひ方」には「決戦下にお互ひが一冊の雑誌を五軒十軒に回読して、家庭の戦力増強にお役立てくださるやうお願ひいたします」とある)。
その裏表紙のマスの上には、「実戦即応 防空必勝の知識」がカラー図解で描かれている。米軍爆撃機による空襲に対して、防空頭巾にヘルメット、ズボン姿の女性が、右手に水の入ったバケツを持ち、片膝をついて身構えている。ここでの「防空必勝」とは、「待避所」に隠れて空襲後に「消火活動」にあたる、という内容だった。……虚しい。
目次の記事を見ると、座談会が多い。「トラック島血戦白衣の勇士の熱血座談会」「貯蓄推進隊長の決戦座談会」「傷痍軍人妻の会」「女子挺身隊長と労務監督者の座談会」と4つもある。もちろん全て「時局に対応」している。「貯蓄推進隊長の決戦座談会」によれば、昭和19年度の戦時貯蓄政策の目標額は360億円だという。これ戦前の話だから、現在に換算すると100兆円は軽く超えるだろう。これらは国民の郵便貯金・簡易保険・国債などであり、それを湯水のごとく使って戦争は継続されていたのだ。
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捌書日誌の「球根栽培法」についての私の文章を見た知り合いからメールが届いた。
「稀覯書であることは間違いないのですが、稀覯書としては比較的有名なものです。時代背景としては、日本共産党が1950年のコミンフォルム批判によって動揺し、51年10月に新綱領を採択して武装闘争路線を打ち出した時期に出されたもので、この時期、同様に「栄養分析表」などいくつか類似の地下文書を発行しています。「山村工作隊」や「中核自衛隊」創設の訴えや、具体的に武装闘争を支援するために火炎瓶や爆弾の作り方が書かれ、1974年に三菱重工爆破などを行なった東アジア反日武装戦線が出した「腹腹時計」などとともに非常に著名な地下文書です」
結構有名なのだった。実はその後私も、松本清張『日本の黒い霧(上)』(文春文庫)の242頁に、以下の記述があるのを発見した。
「…世にいう火炎ビン闘争や、日共が発行したと云われる「球根栽培法」「栄養献立表」などに書かれた火炎ビンや手榴弾などの爆発物の化学的調合法のテキストが下部組織に流れていたのは、世間で知られている」
ネット上でも、「火炎ビンや爆弾の作り方」が書かれた古典的テキストとして、その名は流通しているみたいだ。きっと山口県立光高校の爆発物投げ込み事件の犯人の高校生も知っているだろうな。
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先月、高橋文庫のあるビルの防災訓練があった。私も「火事だ〜!」と大声で叫んでから、消火器のピンを抜いてレバーを握るという、実地訓練に参加した。もちろんこれは、大地震などの万が一の事態に備えての訓練であるが、戦時下では「万が一」などとは言っていられない。という訳で、今回は昭和19年6月刊行の小冊子、警視庁防空消防課校閲、大日本防空協会帝都支部編『隣組防空絵解』について書く。
表紙には、夜景に浮かぶ3つの機影。これはきっとB29……ではなかった。佐々木隆爾編『昭和史の事典』(東京堂出版)によれば、B29の初空襲は昭和19年6月16日北九州八幡においてであり、東京空襲はその年の11月24日からである。「米国飛行機ノ識別」の項には、「ノースアメリカンB25(爆撃機)」を始めとする米軍爆撃機の機影の特徴がちゃんと描いてある。「待避」の項には、路上や屋外での待避の仕方や「地下待避所(防空壕)ノ容積ノ標準」が図解してある。「燈下管制」の項には、どうすれば部屋の明かりを外部へ漏らさないようにできるかが図解してある。「消防防火」の項には、「水ノカケ方」その他について、懇切丁寧な説明がある。そして「防毒」。この当時、毒ガス弾はとても怖れられていたらしい。ほぼ同時期の「主婦之友」昭和19年3月号の裏表紙にも「実戦即応 防空必勝の知識 空襲と毒瓦斯」が載っており、「敵は、毒瓦斯による日本本土空襲を企図してゐるかに考へられる」「毒瓦斯は恐ろしい。しかしそれは、無防禦、無知識の場合であつて、少しでも毒瓦斯の正体を知り、対策を心得てゐれば敢て恐れるに足らない」とある。ホンマカイナ?
カラーのイラストが美しいこの本は、「防空必勝」の為に作られた。だが「防空」において「必勝」などはありえない。それはこの時代のほとんどの日本人が実感していたはずだ。翌年3月10日の東京大空襲で、この本には載っていないB29の高性能焼夷弾が、本所・深川・城東・浅草を焼き尽くし、死者10万人、負傷者11万人、約100万人が住居を失った。(前出『昭和史の事典』による)――おそらくこの『隣組防空絵解』の多くは、大空襲の際に住居と共に灰になってしまっただろう。かろうじて残った1冊がいま高橋文庫にあることに、ちょっとした感慨を抱きつつ筆を置くことにする。
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最近、佐藤紅緑の少年小説『ああ玉杯に花うけて』に関する文章を書く機会があった。この作品は1927年から1928年にかけて「少年倶楽部」に連載され、その人気により「少年倶楽部」の発行部数が1年で30万部から45万部に跳ね上がったという、伝説的な小説なのであるが、その中に出てくる安場五郎という第一高等学校の学生が、旧制の中学校に通うことなく高等学校に入ったという記述があった。安場はどのようにして高等学校受験資格を得たのか、まあ今の「大検」(大学入学資格検定)のようなものだろうと思ったのだが、何か資料がないかと探していたら、「受験と学生」大正十二年受験準備号(1923年1月発行、研究社)というのを見つけた。
結論から書くと、当時は「高検」(高等学校入学資格試験、中学四年修了程度)と「専検」(専門学校入学者資格検定試験、中学卒業程度)という2つの検定試験があって、そのどちらかに合格すれば高等学校受験資格が得られる。その上で、第一高等学校の入学試験に合格すれば、晴れて「一高生」になれるのだ。「東京で一月に行ふ高検と専検」という記事によれば、1922(大正11)年度の志願者は「高検」514名、「専検」279名で、合格者は「高検」56名、「専検」31名であった。1923(大正12)年に行われる「高検」は、1月6日から18日までの12日間(14日は休み)で、連日午前8時より、内容は数学(4時間)、外国語(4時間)、国語「一高入学者の合格点と学歴」及漢文(4時間)、博物・物理・化学(4時間)、歴史・地理(3時間)、修身・図画・体操(4時間)と、過酷なものだった(「専検」もほぼ同じ)。また、「一高入学者の合格点と学歴」という記事によれば、1922年度の一高入学志望者は2343名(文科1279名、理科1064名)、入学者は353名(文科191名、理科162名)であった。
もちろん一高以外にも高等学校はたくさんある。また1918(大正7)年の大学令以降、私立大学も「大学」として公認されるようになった。「受験と学生」にも、高等学校・専門学校・私立大学の受験情報が色々と掲載されている。それでも一高から東京帝国大学を経てエリート官僚になるのが、戦前の「立身出世」の王道であった。安場も小説の最後で「あれは今倫敦の日本大使館に居ます」と語られることから、無事この王道を歩んだものと思われる。もっとも佐藤紅緑自身は「私が十七八歳であつたなら……学校などへは決して行きません」と「理想は遠大に現実は忠実に」(「キング」1928年9月号)で書いている。実際、彼は19歳で弘前中学を退学になり、親に無断で上京している。
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労働組合については、あまりよく知らない。
かつて国鉄がよくストライキをやったが、JRになってからはそれもなくなった。
ある学会の運営委員会の出欠を問うた時、知り合いの先生が「今日は組合の話し合いがあるから行けません」という連絡をくれたので、その大学に組合があることを知ったのだが、それにしても現在、労働組合は社会の表舞台にあまり出て来なくなったように思う。
今回取り上げるのは、その労働組合の組合員たちが作った「文芸誌」である。
「高師小僧」は、大日本紡績労働組合豊橋支部の発行で、高橋文庫にあるのはその第3号(昭和32年4月発行)だ。
あえて昭和で記したのは、今年2005年(平成17年)は、換算すると丁度昭和80年にあたるので、今から48年前だとすぐわかる、ということが書きたかったからだ。
この「高師小僧」は、確かに労働組合の雑誌なのだが、何だか学校のような雰囲気がある。
巻頭に4頁ほど写真が載っているが、「支部定期大会」や「新組合員教育講座」の様子と共に、「高塚海岸ハイキング」や「浜名湖周遊ドライブ」、また「文化祭」でのコーラス部や演劇部の活動などもあり、とても楽しそうだ。
紡績会社なので女性が多いようで、雑誌の内容も「『婦人組合員のために』発言の手引き」(教育部)や「御婦人のための旅行心得帳」(情宣部)など、女性を意識して書かれた記事が目に付く。
彼女たちの生活は、決して楽なものではない。
秋田出身の熊谷タヱ子さんの「現在の私」という文章には、
「つらい起床レコードに起された。ふと外を仰げば真暗の闇、なんという残酷な世の中だろう。同じ年頃のお友達は八時頃迄寝ていてそれから学校へ、勉強が自分の一日の仕事の全部であるお友達と、四時に眠い目をこすりながら起きて、ガチヤガチヤと機械の噪音の中で汗まみれになつて働く私、どうしてこんな世の中だろう。」
という感慨が語られている。
だがその中で「現在の私はただニコニコと明るく成長して行くことだ。」と自分に言い聞かせる。
なぜなら、そこに彼女たちの青春があるからだ。
秋田だけではなく、岐阜や、鹿児島や、長野から、彼女たちはやって来た。
三好国夫さんの「職場の仲間へ」という文章には、春枝さんという同僚から「女子は何故組合活動に参加しないか」の理由として、
「私達の殆んどは農家の嫁にならねばならない。農家の嫁の立場がどんなものか貴方にはよく判らないわ」
「私達は勤務の余暇は良き妻となるため料理や裁縫その他沢山あつて男子の人ほど時間的余裕はもてないわ。自治会の方だけでも大変だわ」と言われたとある。
そうなのだ、彼女たちはやがて、「農家の嫁」となるために地元へと戻って行く。
それまでのささやかな青春の一端が、この「高師小僧」に垣間見えるのだ。
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いつものようにダンボール箱を開けて中の雑誌を分類していると、B6版の小ぶりな冊子が何冊か出てきた。
家庭園芸研究会編「球根栽培法」という題名がついており、表紙にはザルの上に置かれた球根らしき絵が描かれている。
発行元は東京・東書房と書かれている。高橋文庫には農業関係の雑誌も幾つかあるので、またそれかと思って中をパラパラめくってみると、
「われわれは、武装の準備と行動を開始しなければならない。」
え、なにこれ?
実はこの表紙はカモフラージュで、中身は共産党関係の政治的なパンフレットだったのだ。
高橋文庫には、1951年11月1日号、11月8日号、12月20日号、1952年1月8日号の4冊がある。
11月1日号は裏表紙に「内外評論 第2巻第30号(注:これは21号の誤り)」と書かれており、これが本来の題名らしい。
隔週刊で、定価月50円とある。
これは安いのか高いのか?週刊朝日編『値段の明治大正昭和風俗史』(朝日新聞社、1981年)を参照すると、1950年(昭和25年)に総合雑誌「中央公論」が90円、朝日新聞の月ぎめ購読料(朝刊のみ)が53円だった。
(ところが2年後の1952年には、「中央公論」は120円、朝日新聞は朝夕刊セットで280円になる!)
ちなみにアンパン・ジャムパンは、いずれも1個10円だ。
内容を紹介しておこう。
11月1日号(通巻第30号)は、
目次に「新綱領草案の討議を終結するに当って」「一般報告」「規約の修正」「結語」とあり、
「規約の修正」の最初に
「一、第二条 日本共産党は、日本労働者階級の利益を代表するとともに、日本民族と全国民の利益を代表する。……」
とあることから、これが日本共産党の規約であることがわかる。
11月8日号(第31号)には目次がなく、内容は軍事組織に関するQアンドAになっている。ここに頻出する「敵」とは、どうやら「アメリカ帝国主義者と吉田政府」のことらしい。
12月20日号(第33号)は目次に「「当面の戦術と組織問題について」とあり、これについて6つの項目が立てられている。「国民を、民族解放民主統一戦線に団結させる」ことが目標らしい。
1月8日号(第34号)では、新綱領の決定後の動きや、造船産業、三越ストライキについての報告などが載っている。
1951年は、サンフランシスコ平和条約が調印された年である。
その前年1950年6月に勃発した朝鮮戦争は、未だ膠着状態が続いていた。
また平和条約と同時に日米安全保障条約が結ばれ、講和後も在日米軍は日本に留まることになる。
GHQによるレッド・パージ以降、日本共産党にとって、日本は思わしくない方向へと進んでいたに違いない。
この「球根栽培法」を、どのような人が、どのようなルートで購読していたのかはわからないが、戦後にもこんな「謎」の雑誌があったことは、注目に値するだろう。
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1945年(昭和20年)8月15日に、日本はアメリカ及び連合国との戦争に負けた。
それから丁度1年後の1946年(昭和21年)8月15日に、季刊「ソレイユ」(後に「それいゆ」とひらがな表記になるようだが、ここでは創刊号のカタカナ表記に従っておく)が、挿絵画家の中原淳一によって創刊された。
中原は、戦前の「少女の友」(実業之日本社)の表紙や挿絵で人気を博した「美少女」画家である。
あの独特な上目づかいの少女のまなざしは、後の少女マンガに多大な影響を与えたものと思われる。
我々は敗戦後の日本というと、空襲による焼野原や、闇市、復員兵などを思い浮かべる。
だが「ソレイユ」にはそのような暗い世相は含まれていない。
巻頭のグラビアには、ドレスを着飾った笑顔の高峰秀子や、凛とした雰囲気の作家中里恒子などの写真が載っている。
さらにグラビアと目次のあいだに挟まれた部分に、この雑誌の目玉である「ソレイユ・パタン」というファッションスタイルのカラーイラストが綴じ込まれている。
田中千代がデザインした服を、中原がイラストに描いたもので、少女ではなく、八頭身の女性の姿として描かれている。
その色彩は60年近く過ぎた今も鮮やかで、当時の女性読者は、目を輝かせながらこれらのイラストを見つめていたのだろう。
創刊号の編集後記には、「野草の食べ方、肺病に効くお灸と言つた様なものは、この『ソレイユ』の編集方針ではない。
私達の周囲は余りに凡てが美しくない。
今出来る事、今着られる服だけをのせてゐたら、この『ソレイユ』の存在価値はない。
/こんな本はくだらないと言はれるかも知れない。
お腹の空いている犬に薔薇の花が何も食欲をそゝらない様に。
/然し私達は人間である!!/窓辺に一輪の花を飾る様な心で、この『ソレイユ』を見ていたゞきたい」と書かれている。
豊かさへの憧れの肯定が、この文章には感じられる。
この雑誌を手に取ってみると、古臭い感じがしない、独特のセンスの良さが感じられる。
こういう雑誌を敗戦1年後に出した中原もすごいが、それを支持した女性読者もかなりいたということだ。
報道写真では見えない〈戦後〉が、この雑誌を通して見えてくる。
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最近、本を読んでもちっとも頭に残らない気がするのだが、十代の頃に繰り返し読んだ本の内容は、今でも突然何かのきっかけで思い出すことがある。
高橋文庫のダンボール箱の中から「星雲」が出て来た時、ずっと忘れていた『SF事典』(横田順彌著、広済堂出版)の記述が頭の中に甦った。
確かこの「星雲」は、日本最初のSF雑誌と書かれていたはず……。
家に帰ってから本棚をひっかき回して、やっとのことで見つけたその『SF事典』には、次のように書かれていた。
「星雲 一九五四年(昭和二十九年)十二月に、日本で最初に創刊されたSF専門誌。A五版一七二ページで、発行は森の道社。スタッフには、現日本SF界の長老矢野徹ほかの名前が並び、R・A・ハインライン、K・ネビル、J・メリルらの短篇を揃えてのスタートだったが、惜しくも取継店とのトラブルのため、創刊号のみで消滅した。(後略)」
いわば「幻のSF雑誌」なのである。現在も続いている「SFマガジン」(早川書房)は1960年(昭和35年)創刊だから、それより6年も早い。
目次を見ても、星新一や小松左京や筒井康隆といった日本SF作家の名前はどこにも無い。星のデビューが1957年、小松が1961年、筒井が1960年と、まだ誰も「作家」になっていなかったのだから、当然だが。唯一、映画「ゴジラ」の原案者の香山滋が「北京原人の行衛」というエッセイを寄せているのが目を引く。まだ「SF」と言えば「翻訳もの」の時代だったのだ。
(上記の記述にある作家・翻訳家の矢野徹氏は、昨年10月13日に亡くなられた)
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高橋文庫で雑誌の分類作業をしている時、真っ先に目に付いたのがこの「カジノ・フォーリー・パンフレット」だった。カジノ・フォーリーとは、1929年(昭和4年)に浅草水族館に開場したレビュー劇場のことである。「水族館」という名前通り、どうも1階には水槽やら魚の標本などがあったらしいが、2階は劇場になっていて、そこで10代の少女達が踊ったり、お芝居をしたりする。おそらくその劇場で売られていたパンフレットなのであろう。高橋文庫にあるのは「第二次」の1冊目と2冊目である。その「第二次 創刊号」の奥付には「定価 一部 十五銭」とある。状態はとても良く、1931年(昭和6年)発行のものとは思えないほど。よくぞこのようなパンフレットが綺麗に保存されていたものだ。
カジノ・フォーリーを有名にしたのは、川端康成の小説「浅草紅団」である。1929年12月より「東京朝日新聞(夕刊)」に連載されたこの小説には、主人公の弓子が、復讐の相手の男と出逢う場面に、当時のカジノ・フォーリーの様子が描かれている。「シルク・ハットを斜めにかぶり、黒ビロウドのチョッキに、赤リボンのネクタイ、白く開いた衿、細身のステッキを小脇に抱えて――もちろん女優の男装で、足は裸だ」現在の宝塚歌劇のようなものかも知れない。川端はこのパンフレットにも「浅草・水族館」という巻頭エッセイを連載している。他にも、武田麟太郎や青野季吉や楢崎勤といった文学者達が寄稿している。だが、何といってもパンフレットのメインは、踊り子達の「写真」と「ことば」であろう。
昭和初期の浅草の、妖しさ、いかがわしさを含んだ魅力が伝わってくるパンフレットである。
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