高橋新太郎は膨大な書籍類を収集しました。そのごく一部を、雑誌「彷書月刊」に「集書日誌」として本人が紹介しています。しかし大半の蔵書は未整理で、収集の意図もわからず、管理・分類もされていません。そのため、本人死去の後、収集された蔵書の目的や、目的に照らした整理・分類は不可能な状態となっています。高橋新太郎文庫プロジェクトメンバーの日々の作業は、とにかくその膨大な書籍を「捌いていく」ことにありました。そこで、高橋新太郎の日常が「彷書」と「集書」であったのなら、プロジェクトメンバーの日々は「捌書」であろうと造語しました。
義父・高橋新太郎が亡くなったのは2003 年1 月11 日のことです。あれから、早6 年半の歳月が経過しました。前年の春に、余命幾許もないと告げられ、本人も家族も覚悟していたとは言え、入院、死去、葬儀、そしてその後の後始末と実に大変でした。
その大変な後始末の一つには、故人の遺した膨大な数の蔵書がありました。故人が長年にわたり全国の書店、古書店から買い集めた書物は、自宅の書斎や書庫はもちろん、居間や台所まで所狭しと積み上げられており、また、大学の個人研究室に詰め込まれたものを合わせると、その数は6 万冊とも7 万冊とも見積もられました。私たちは、この「本の山」の前で、まさに呆然とするしかありませんでした。
故人の遺した蔵書類は、周囲の研究者や出版社の方々に伺ったところ、特定のジャンルで括ることはできず、収集者である故人だけしか、それぞれの書物や資料を収集した意図、その関連性がわからないだろうということでした。しかし、故人がそれらをもとに、大学を定年退職したのちに何らかの書を著わすつもりであったということは、私たち家族も含めた周囲の多くが知っていました。
故人がその余生を打ち込む仕事としようとし、しかも果たせなかった「何か」のための蔵書類を、ただ古書店等に売却処分するのは忍びない……だからといって、このままにすることもできない。そう思い悩んでいるときに、故人と私との共通の知人である中川順一氏から、ホームページ上のコレクション「高橋新太郎文庫」を作りたいという申し入れがありました。膨大な数の蔵書類は、いずれは処分するしか方法がないとしても、故人が一体どのようなものを収集していたのか、それを把握してみたいということでした。そして、そうすることで、故人が生前お世話になった学界の方や後進の研究者の方々にお役に立つものも発見できるのではないか、と。それはまさに、私の思いそのものであり、遺族として可能な限りの協力をするとお伝えしました。
そのような経緯で始まった高橋新太郎文庫の取り組みでしたが、作業経過の報告を受けるたびに、その試みが大変なものであることを知らされ、また、ある意味で「終わりのない作業」ではないかという思いさえしていました。しかし幸いなことに、「高橋新太郎文庫」プロジェクトの取り組みは多くの方々の知るところとなり、その結果、学習院女子大学・永井和子学長をはじめ多くの方々のご理解とご支援もいただくこととなりました。そして蔵書類の一切は散逸することなく、学習院女子大学と尾道大学とにお引き受けいただくこととなったわけです。
「高橋新太郎文庫」のプロジェクトは、蔵書自体が両大学に寄贈されたのちも、ホームページ上の更新や両大学においての整理作業が続けられると聞いていました。故人が収集したものが後世に遺り、多くの研究者らによってさらにその価値が高められることになれば、遺族として大変喜ばしいと思っていたところ、今般、学習院女子大学より、寄贈した故人の蔵書が同大学図書館の「コレクション」として整理され、広く一般に公開されることとなったとの連絡を受けました。故人の「後片付けも」も一区切りがついたように思えましたので、「高橋新太郎文庫」プロジェクトの皆さんが整理し、学習院女子大図書館が公開した蔵書リストを、ここにファイリングした冊子を制作いたしました。何年かあとに、プロジェクトについて振り返るときの記録として遺すことも、目的の一つです。
前述したとおり、このプロジェクトは多くの方々のご理解とご協力により進めることができましした。とくに、故人と私ども家族とが長年にわたりお世話になっている永井和子先生をはじめ学習院女子大の先生方、職員の皆様方には、故人の没後もまだお手を煩わすことになったことを申し訳なく思いますとともに、深く感謝を申し上げます。また、プロジェクトメンバーと周囲の協力者の皆様方への感謝を改めて申し上げ、本冊子の巻頭の言葉に代えさせていただきます。
平成21 年8 月31 日
園木 章夫 冨士鉱油(現・冨士クラスタ)グループ代表
高橋新太郎文庫 事務局 中川 順一
高橋新太郎文庫の進捗について2009 年7 月末現在の状況を、プロジェクトの事務局として報告します。
「高橋新太郎文庫」のプロジェクトは、日本近代文学とその時代の研究に資するために、故・高橋新太郎の業績と蔵書、収集資料目録を記録することを当初の目的としていました。その立ち上げ経緯については、「『高橋新太郎文庫』の取り組み」(彷書月刊2004 年10 月号。13 ページに再録)に記載したとおりです。
学習院女子大学の個人研究室の書籍を搬出し、人形町冨士ビルの地階(後に、同ビル6 階に移動)に搬入したのが2003 年2 月、次いで、東京都中野区沼袋の故人の自宅にあった膨大な書籍類の移動を完了したのは同年5 月過ぎのことでした。それから約2 年以上の期間、整理の方向性もつかめぬまま、まずは資料価値として貴重であろうと判断した雑誌創刊号や、故人の研究分野の一つであった戦後の社会風俗を知る手掛かりとなる雑誌資料等のピックアップなどを行いつつ、ホームページの公開を行ってきました。
ホームページには研究者のほか、マスコミ関係などからの取材ソースとしての資料請求も数多く寄せられ、故人の蔵書の「価値」が伺えました。
2004 年からは、故人の教え子でもある国文学研究者・松村良氏がプロジェクトに加わりました。松村良氏には、プロジェクトの進捗や分類作業の精度向上に多大な貢献をしていただきました。また、その頃からは、蔵書分類についての方針を定めるとともに、「最終着地点」として、書籍の一括寄贈先の検討を行ってきました。
その後、学習院女子大学・永井和子学長、尾道大学・和佐谷維昭教授、同・柴市郎准教授ら多くの方々のご尽力により、およそ7 万冊の蔵書について、学習院女子大学図書館と尾道大学による引き受けが決定し、2005 年12 月に、高橋新太郎の遺族である園木家から両大学に蔵書の一切が寄贈されました。
学習院女子大においては、2006 年4 月より2009 年3 月までの3 年間にわたり、同大学学芸員実習室等に仮保管された蔵書類の分類と目録作成作業を行いました。それらは最終的に、学習院大学図書館の「コレクション」として学内外に下記のように発表されました。
(学習院女子大学ホームページ2009 年6 月19 日) 高橋新太郎文庫本文庫は、国文学者の故・高橋新太郎学習院女子大学名誉教授(1932‐2003)のご遺族より寄贈された資料をもとに開設されました。
高橋先生が自らの研究のため、全国の古書店をまわり、さまざまなジャンルの書籍や文献を収集し、さらに膨大な新刊書や雑誌を書店から買い求めた結果、「近代文学など既成のジャンルで区分・整理することが困難」とされるほどの資料群となりました。戦前・戦後に刊行された『雑誌の創刊号コレクション』や『女性誌コレクション』など異彩を放つ内容となっています。
また、同大学に所蔵された蔵書については、以下のように利用されることとなりました。
(学習院女子大学ホームページ2009 年7 月1 日)
●高橋新太郎文庫の閲覧方法について
本学名誉教授で国文学者の故・高橋新太郎先生(1932 ‐ 2003)のご遺族より寄贈された資料をもとに開設された当文庫について、所蔵リストをホームページに掲載して、利用に供することになりました。当文庫では、雑誌の『創刊号コレクション』や『女性誌コレクション』など異彩を放つ資料を垣間見ることができます。次の利用方法をご確認の上、ご利用ください。
高橋新太郎文庫の「価値」をどのようにとらえるかは、プロジェクト発足時から議論のあったところです。蔵書のそれぞれにどのような「価値」があるのか、ということだけでなく、プロジェクトの長い取り組みの中で、この作業そのものに果たして「価値」はあるのだろうかという疑問さえも生じました。しかしながら、今回、作業の一つの区切りとして、学習院女子大学図書館が上記のように整理し、広く一般への公開に踏み切ってくださったことは、「少なくともそれだけの『価値』はある」と証明されたと安堵しています。
今後の取り組みとしては、初期の蔵書リストのまま掲載されている「高橋新太郎文庫ホームページ」の情報の整理と更新、尾道大学の取り組みの進捗確認と学習院女子大学データベースとのリンクなどが必要かと考えられます。しかしそれらはいずれも、これまでと同等以上の労力が予想されますので、ボランティアのプロジェクトとして可能なことのみについて選択的に対応していく考えです。
なお、プロジェクトの進捗の中で、必要に迫られて「書庫」を賃借しました。両大学への寄贈からこぼれた資料や未整理の遺品類の保管と仕分けのための作業場です。2005 年9 月に借りたこの作業場は、事務局である私の事務所(ノラ・コミュニケーションズ)と、この時期からの主な作業場となった学習院女子大学の中間地点である新宿区高田馬場1 丁目のマンションの1 階で、駐車場を改装し事務所にした物件です。この界隈は、昔「諏訪町」と呼ばれており、マンション名にもそれが冠されていましたので、私たちはここを「諏訪書庫」と呼びました。
プロジェクトが一定程度完了し、作業場は不要になりました。しかし、諏訪書庫は現在も存在しています。私の事務所の分室として、書籍や資料の保管と打ち合わせスペースとして使用しています。当社の出版物のブランド「諏訪書房」「諏訪書房新書」もこの書庫から生まれました。故・高橋新太郎先生の大きな写真が飾られた諏訪書庫は、かつての故人の研究室同様、書物に溢れた乱雑な部屋ですが、近所の野良猫たちが集まる、妙に心落ち着くスペースとなっていることも、あわせてご報告いたします。
以上