高橋新太郎文庫のこと

松村 良

 おそらく多くの研究者が、本やコピーの束の置き場の確保や、その整理に頭を痛めているであろうと思う。我が家においても、雑誌のバックナンバーは捨てられず、紐で括ったまま壁際に積み上げられ、紙袋に突っ込んだままの書類は、それが何なのかわからないまま放置されている。本棚は当然二重になっており、必要な本を探し出すのも一苦労だ。文庫本ならば、見つからなければもう一冊買い直したほうが早いと誰かが言っていたが、確かにその通りで、おかげで最近は同じ文庫を二冊も三冊も買ったりしている。

 高橋新太郎氏はかつて「本が逃げる――『美術眞説』のこと」(「学習院女子短期大学国語国文学会会報」12、一九八三・三)の中で、フェノロサ氏演述、大森惟中筆記の『美術眞説』を「二十三、四年前に神田の展覧会で、たしか五百円で入手した」にもかかわらず、それを目白から戸山にある学習院女子短大(当時)の研究室に運び込んだ時に紛失し、「この小冊子は逃げるように姿を消してしまった」と悔やんでいる。私はこの文章を、高橋氏の遺稿集であり追悼文集でもある『杜と櫻並木の蔭で――学習院での歳月』(永井和子・園木芳編、笠間書院、二〇〇四年七月)で読んだのだが、この「本が逃げる」という表現に込められた思いを、氏が遺した膨大な蔵書の整理をしながらしみじみ実感したのであった。

 高橋新太郎氏は学習院女子大学を定年退職する直前の二〇〇三年一月に逝去された。あとには膨大な本と雑誌と資料の束とが残された。それがどのような経緯で保存されるに至ったかについては詳述できないが、多くの人達の尽力により、これらの蔵書は全て一ヶ所に集められ、段ボール箱に詰めて保管された。勿論これは書籍保存の環境としては決して望ましい状態ではなかったが、おそらくそんなことを言っている暇はなかったに違いない。

 私がこの整理作業に加わったのは、二〇〇四年の六月からである。約二五〇〇箱の段ボール箱が、かろうじて人が通れる間をあけて積み上げられた状態を見た時、最初は状況がうまく把握できず、次第に事態が深刻であることがわかり、最終的には書物とはまず何よりも質量を持った物質であると実感した。この中のどこかに『美術眞説』があったとしても、それを探し出すためには、二五〇〇箱の段ボール箱を一つずつ開けて、五万冊以上の本や雑誌を一つずつ調べていくよりないのである。貴重本もあれば、ごくありふれた本もある。分けられていたのは、書籍と雑誌、一九七〇年以前に発行されたものとそれ以後に発行されたもの、創刊号、カストリ雑誌、などであり、それだけでもかなりの時間と労力をかけていることがわかったが、全体としてはほとんど未整理であり、どこに何があるかを知っている人は誰もいないのだった。

 結局私は全体を把握することは諦め、一九七〇年以前に発行された雑誌に絞って整理作業を始めた。これだけでも三〇〇箱以上あり、週一、二回通って大まかな分類をするだけでも一年以上かかった。二〇〇五年の夏頃になって、学習院女子大学が主に私の整理していた雑誌等を引き取り、残った蔵書を全て尾道市立尾道大学が引き取るという話が持ち上がった。この時も多くの人達の尽力があって、両大学との交渉の結果、二〇〇五年末に全ての段ボール箱を学習院女子大の教室へ移し、翌二〇〇六年三月にそこから十トントラック数台で尾道へと移送した。残った雑誌の整理は現在も継続中であり、来年までにリストを作成した上で、大学図書館に移管される予定である。また、尾道大学の方でも、長期的な展望のもとに、整理作業が進められているものと思われる。

 こうして高橋新太郎氏の蔵書は、奇跡的に二つの大学に分割されて、その全体が保存されることになった。東京に一括して保管されていた時に、私は何人かの知り合いの研究者に声を掛けて、今のうちに見に来るように誘ってみた。夏休みにカストリ雑誌等を調査しに来た人もいたが、高橋氏のコレクションはかなり魅力的であったらしい。現在カストリ雑誌は、創刊号を除いて全て尾道大学にあるので、東京で見ることは出来なくなってしまったが、それでも、インターネットでの検索から高橋新太郎文庫のホームページに辿り着き、雑誌の閲覧やコピーを申し込んでくる人が何人もいる。将来、二つの大学の蔵書リストがインターネット上で接合して、高橋氏のコレクションの全貌をより多くの人が知ることが出来るようになればと思う。

 以上のような話を研究者仲間にした時に、ある人から、そのような蔵書は全て古書市場に流すべきだという意見があった。確かに、高橋氏の蔵書の多くは全国の古書店から買い漁ったものであり、雑誌「彷書月刊」に連載していた「集書日誌」には、古書店をめぐるエピソードが数多く語られている。おそらく高橋氏は、自分の集めた本が再び古書店に並ぶことを当然のことだと思うだろう。ただ、それが一人の研究者によって集められたことの意味はどうなるのであろうか。

 おそらく高橋氏にはやり残した仕事が数多くあったに違いない。氏が研究対象として足跡を追っていた、三好十郎や竹中久七に関する資料は、それをどのように論じようとしたかはわからないにしても、やがて後世の研究者によって生かされる時が来るかもしれない。また、ガリ版刷りの同人雑誌や、奥付の無いパンフレットなど、現在まで残っていることが珍しいと思われるものなども、やがて二〇世紀の日本の風俗文化を知るための貴重な資料となるに違いない。古書的価値のあるものも、そうでないものも、全てを一括して遺すことに意味があるのであり、値がつくものだけを抜き取って、あとは廃棄処分ということにしたら、もっと大事なものを失ってしまう可能性がある。

 もちろん全ての研究者が、自分の蔵書を大学に寄贈することは出来ない。値のつくものだけを残すのが常套手段であろう。高橋新太郎文庫は、その保存に関わった多くの人達の思いと、幾つかの偶然に支えられて、その蔵書をトータルな形で残すことの出来た稀有な例である。その保存の意義は、資料の整理が進んで多くの人達が活用出来るようになった時に、理解されるに違いないと確信している。

 『杜と櫻並木の蔭で――学習院での歳月』には、学習院女子大の同僚の徳田和夫氏による「あふれかえる書物」という一文があり、高橋氏の研究室の様子を臨場感を込めて語っている。「時折、どさどさっと物の落ちる音がする。書籍の山が崩れているのである。いつぞやは、廊下でドアをがたがたと押しておられた。崩れた本がドアを塞いでしまっていたのだ」こうなると最早持ち主の意思を超えて、本が高橋氏の研究室の中で増殖しているような状態である。常に本に囲まれて、本の中で暮らしていたかのようだ。

 『美術眞説』は、その後かなりの年月を経て、ある日突然見つかったというエピソードが、確か「集書日誌」の中にあったと思う。われわれは日常的に本を購入し、使用し、保存しているはずなのだが、実はその本が自分の手元にやって来たのも、逃げて行くのも、われわれの意思とは異なる力に左右されているかもしれない。

(「昭和文学研究」第56集、二〇〇八年三月)

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