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平成は良い時代だったのか

ビジネス戦士の平成

平成は良い時代だったのか

 

 ほどほどの元号、平成

 平成の時代もあと8ヵ月で終わる。明治維新から150年が過ぎ、平成がどんな時 代だったかについては、後世の歴史家が評価してくれるであろう。

 ここでは、一ビジネスマンの立場から、時代の重大ニュースを思い起こしながら、 平成をたどってみたい。

 平成の時代は、明治、大正、昭和と比較して、まずは適当な長さである。いま元号を持つ国は、世界で日本だけである。2つの年号を持つ不便さはあるものの、元号は世界でも稀な文化遺産というべきであろう。私は、かつて『春秋余情 私のほどほど 人生』(2011年刊)なる小著を出したことがある。平成は、一言で言うならば、まさに「平易で、ほどほどの元号」であった。

 

ほどほどの時代、平成

 1989年、平成の幕開けには、ベルリンの壁が崩壊し、天安門事件があった。国内では、消費税が導入された。91年(平成3年)には、バブル経済がはじけ、その後「失われた20 年」が続いた。95 年(平成7年)には、阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件も起きた。2001年(平成13年)には、米国で同時多発テロがあった。下って11年( 平成23年)には、東日本大震災が発生した。

 このように、社会経済的に見れば、必ずしも良い時代ではなかった。しかし、我が国では、時に政治の混乱があったが、戦争に巻き込まれることもなく、犯罪や事故の件数も減少した。経済情勢の大きな変動はあったものの、社会保障も進んだ。マクロ的に言えば、平成の時代は、多くの人がほぼ平穏に暮らせた、良い時代であったと言えようか。

 一方、私個人についてみれば、平成はどんな時代だったか。私が勤めていたのはキ ッコーマン株式会社。1989年(平成元年)に営業企画部長、94年(平成6年)に取締役、99年(平成11年)に常務、2002年(平成14年)に専務となり、10年(平成22年)まで在籍した。この間、事業部、営業、総務、広報、品質保証など、多くの部門を担当することができた。米国の同時多発テロのときは、妻とニューヨークに旅行中で、冷や汗をかいたこともある。しかし、ビジネスマンとしての平成は、おおむね充実した時代だったと言えよう。会社をリタイヤした後は、輝いていたというほどではないが、17年(平成29年)の会社創立100年記念式典では、OB代表として、挨拶することができた。まさに「ほどほどの時代」だった。

 

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『私のビジネス春秋』 大森清司・著
諏訪書房発行 定価2000円+税
伝統企業の中で縦横に活躍した50年のビジネスマンライフや企業のコンプライアンス、母校・中央大学、故郷・野田についてつづった。表紙の絵はかつてのキッコーマン野田本社(1927~99年)を日本画家・藤田和春が描いたもの。

 

 

 

平成の危機管理

 平成の大事件と言えば、何をおいても11年(平成23年)の東日本大震災である。3・11の記憶は日本の歴史において、永久に忘れてはならない。M9・0という大地震は、わが国の観測史上初めてと言われた。

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11年(平成23年)3月に発生した東日本大震災は、平成に生きる人々の心に大きな傷跡を残した(写真は震災後の宮城県気仙沼市)。


 しかし、少し前の04年(平成16年)には、M9・1のスマトラ沖地震があった。環太平洋地震帯の真上にのっている日本列島では、当然予想されていたはずである。当時の「想定外」という言葉は、虚しく聞こえたものだ。

 昭和40年代、私は、福島県原町市(現・南相馬市)にある子会社の工場に勤務していた。当時、東京電力では、原子力発電所を建設していた。原発がいかに安全かを盛んに宣伝しており、私も数回見学に行った。

 その子会社では、アメリカのブランド の、ケチャップとかトマトジュースを生産 していた。ところが、工場が稼働して間もなく、大きな地震があった。このとき、当時の社長は、この地域のリスクを予感したのか、同じ生産工程を他県の工場に併設する決断をした。この決断は正しかった。もし、併設していなければ、商品供給はストップして、消費者の皆さんに迷惑をかけたはずである。

 この工場は、東日本大震災で被災し、放射線量も高く、やむなく閉鎖に至った。東電の原子力発電の判断とは、規模もレベルも異なるが、経営者の判断がいかに大切かを物語る一例である。

 最近の経営者らは、大地震を忘れて自分の任期中の業績さえ良ければいいと考えているのではないか。官僚たちも、自分の権力維持ばかりを優先しているのではないかと思えてならない。

 1995年(平成7年)には、阪神・淡路大震災があった。私はやがて、事業部長から本社総務部長に転じた。当時の野田の本社は、27年(昭和2年)に建設した老朽社屋だった。そこで、80年ぶりに新本社を建設することになった。

 当時の茂木友三郎社長(現・名誉会長)からは「100年もつ社屋をつくろう」と言われた。98年(平成10年)に工事を始め、翌年完工した。広い敷地があったので、建物は低層の3階建てとした。もちろん安全を最優先して設計した。東日本大震災でも、ガラス1枚割れることはなかった。

 

平成のコンプライアンス

 昨今、またも企業の深刻な不祥事が多発している。電機では不正経理があり、自動車・化学・鉄鋼・非鉄金属などでは長年にわたり規格に合わない製品を出荷したり、不当な表示をしてきたという。小説・映画で評判の『空飛ぶタイヤ』(池井戸潤・著)のような事件は現実にもあったのであろう。

 私は長く食品業界にいたが、消費者の口に入る商品は、規格や表示がことのほか厳 しい。85年(昭和60年)に、ワインの表示違反事件が発生した。危機管理を担当していた私は、社長直属の「品質保証室」を提案し、以来今日も存続している。当時、「品質管理」はあっても、「品質保証」の概念はなかった。平成も終わりのころになって、品質保証の大切さに気付くというのでは、経営者として怠慢ではないか。コンプライアンスは、一般に法令順守と訳されるが、そうではない。法律・政令を守るのは当然のことで、それ以上の道義的責任まで含むのである。むしろ社会規範、モラル、良心のほうが尊重されるべきである。このことを企業トップは誤解しないでほしい。ついでながら、政治の世界で問題になっている「モリカケ」問題は、まさにコンプライアンスに合致するかどうかが核心である。政治家や官僚たちに言いたい。「少しは、論語や孟子も読んでみたまえ」と。

 94年(平成6年)、日本マーケティング協会で各社の部課長を対象とした「マスターコース」を開講した。私は「マーケティング・コンプライアンス」を担当し、その後10年間講師を務めた。当時は、まだコンプライアンスなる言葉が普及していないころだった。このことは、小著の『私のビジネス春秋』(2009年刊)で述べたところである。

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『春秋余情 私のほどほど人生』
大森清司・著
諏訪書房発行 定価700円+税
人の一生とはある程度の分をわきまえ、謙虚に「ほどほど」 の生き方を求める旅ではないか︱ 50 年のビジネス社会 を懸命に生き抜いた一サラリーマンの「ほどほど人生」。

 

 

平成のグローバル化

 平成は、日本の企業のグローバル化が大きく進展した時代である。しかしながら、私の勤めた企業が海外志向に転じたのは、昭和30年代の初めであった。醤油の販売会社をアメリカにつくったのは、1957年(昭和32年)。アメリカのデルモンテ社と提携したのは、63年(昭和38年)。アメリカ・ ウィスコンシン州に醤油工場を建設したのは、72年(昭和47年)。その後、着々とヨーロッパ、アジアへと展開してきた。今や、会社の連結売上高は6割、利益に至っては7割が海外である。

 当時の経営陣の先見の明には、頭が下がる思いである。平成に入ってから、海外に目を転じたというのでは、やや時代に遅れていたと言うべきではあるまいか。

 アメリカ企業の一部買収後の91年(平成3年)、私は米国会社の社外取締役になった。当時の日本では、社外取締役や執行役員制度はまだなかった。先進的なソニーでも、執行役員制度を導入したのは97年(平成9年)のことである。役員会はたいていニューヨークで開催された。毎回英語には苦労したが、「コーポレート・ガバナンス」の実際に触れる機会を得た。96年(平成8年)に広報担当常務として、ニューヨーク等へIRミーティングに出かけた。IRといっても、いま話題の統合リゾートなどではなく、投資家向け広報である。現在、会社の株価が比較的堅調なのも、 20年前からの地道な努力があったからではないかと思っている。

 

さらば、平成よ

 2008年(平成20年)に、いわゆるリーマン・ショックが起きた。100年に一度の危機だと言われた。しかし、以来10年が経過し、金融・証券市場は一応安定している。特に12年(平成24年)以来のアベノミクスによって、極端な円高が是正され、株価も上がり、景気は緩やかに上昇してきた。ただ、発行された赤字国債残高は、GDPの2倍以上で、ギリシャよりひどい。インフレ目標もどこかへ飛んで行ってしまった。17年(平成29年)のトランプ米国大統領の登場で、世界の政治経済は不透明さを増している。

 このように、平成の代の終わりは、必ずしも安泰ではない。しかし、日本の国民は、賢く、強いと信じている。必ずや、困難に打ち勝って新しい未来を切り開いてくれると思う。私個人のことでいえば、ビジネスを卒業後は、公益法人興風会(会社の創業者が出資した教育財団)、高校・大学の同窓会、地域社会などの分野で多少なりとも貢献してきた。しかし、そろそろ我が人生も中締めの時がきた。最後に触れておきたいことがある。ご長寿だった昭和天皇は宝算87歳であった。晩年のご公務も大変だった記憶がある。そこで私は、かつて、天皇に定年がないのはいかがなものかと述べたことがある。小著の『春秋高くしなやかに シルバー・ボーイズ、ビー・アンビシャス!』(2013年刊)においてである。

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『春秋高く、しなやかに
 シルバー・ボーイズ、ビー・アンビシャス!』
大森清司・著 
諏訪書房発行 定価1000円+税
リタイア後の「定年」のない人生をどう過ごすか。が んばった人生のご褒美である「オマケのオマケ」の時期 を、伸びやかに楽しみ、しなやかに老いるための1冊。 

 

 しかるに、16年(平成28年)7月、今上陛下は、生前ご退位のお気持ちを上手に表明された。私は、「陛下よ、よくぞ申された」という思いがした。陛下は国民のために、もう十分に尽くされた。今上天皇におかれては、ご退位の後も、お健やかにお過ごしになられるよう心からお祈り申し上げる。

 


 

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おおもり・きよし 1937年8月千葉県野田市生まれ。60年中央大学法学部卒業、野田醤油株式会社(現・キッコーマン)入社。94年取締役就任。02年代表取締役専務として全国の営業を統括。この間、日本マーケティング協会マスターコースマイスター、全国トマト加工品業公正取引協議会委員長、学校法人中央大学理事などを歴任。

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